「◯◯せねばならぬ」的発想が可能性を狭めている。やきもの(陶芸)をやってそれを学んだ。
やきものは、土、釉薬、燃料、温度、温度の上げ下げ、窯の状態などで出来上がりが全く違くなる。従って、この焼き物は私が作った。というのは適切な言葉ではないと思っている。(「一土、二焼き、三作り」という言葉がある)
正しくは、炎が作ったと言うべきなのではないか。と思うくらい、陶芸では”焼き”に委ねる部分が大きいのだ。
(大量生産の製品は、一定な作り(整形)、安定した釉薬、コントロールされた窯で均一なものができる。また、電気窯のプログラムを使って、調整された土、同じ釉薬で焼けば結果はほぼ同じにはなるのだが、こういったケースは表現とは別次元の問題なので論外)
陶芸に興味を持って始めた頃は、焼きあがった作品が嫌いでしかたなかった。理由は、思い描いたものとかけ離れていたからだ。また、しばらくその作品とつきあっていると、だんだんと良さが分かってきたり、見え方すらも変わってくるから不思議だった。 そこには、「こんな作品にしたいのだ」という偏った思い込みがあったからだ。
思い通りに行かないものを「失敗」と思うこともあった。
経験を積むうちに、炎や熱は、物質に対してもの凄い影響力を持っていることと、それをコントロールすることが如何に難しいか。そして、やきものとは、超自然な現象を向きあい、それを受け入れることであることに気づいてきた。
溶けた、溶けない。炎が走った。灰があたった。よく流れた。・・・
こんな僅かな違いに一喜一憂、感謝、感動、激励、勇気、そんなものを感じ、頂けるようになった。
今は、「どうなるか解らない」ときっぱり割りきって、窯に入ったやきものと一体となって経験を学び、時を過ごす自分がある。
物事に対して「こうしよう。こうならなければならない。」は、日常よくあることだが、そんな想いは走り出したらどうでもよいこと。ましてはたから見ればチンケなこと。
「何事もコントロール出来ないものだ。」と変化に身を委ね、シャカリキにそれらと過ごす。それがお互いの持つ価値の共有ではないだろうか。
作品作りに限ったことではない。強い思い込みがどんなに自分や周囲の可能性を小さくしているか。
制圧しよう。コントロールしよう。などと思わず自然の成り行きに任せ、ちょっとした変化を感じ取れる感性を磨くほうが、ずっと感動的なものに出逢えるのだ。
やきものはおもしろいです。一緒にやってみませんか?
「オーガニックにやこう!/炎と暮らしの文化:アルネ小濁やきものワーク」
「自然から個性を学ぶ~灰釉研究 /22年度研究成果:アルネ小濁22年度事業」
「ねおかんのおもしろそうな出来事。:ねおかんぱーにゅ南部」
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