過剰にも驚かなくなってしまったが

 

iPhone欲しい。新しいデザイン、新しいテクノロジー。ふと我に返ると、スタートレックのカーク船長の通信機を未来の装置と憧れた20年前の自分がかわいい。
冷静になると過剰進化にも思えるが、都合よく「欲しい」でごまかしているのかもしれない。

学校給食を作っている知人の話。先日東京の研修会で、ある有名飲食店関係者の講演で「食品衛生に最も注意を払う」とのこと。
「食品の安全第一」「消費者のクレーム回避」もっともだ。
一作日もある食品会社から電話が来た。このところ話題のチーズの異物混入製品の回収の連絡だ。うちなんかたった1kgしか購入してないのに・・このご時世なんだな。と実感。
この話は例えだが、ここまで食品安全に敏感になってくると、「通常」と「過剰」の境が判らなくなってくる。
自然に近い生活体験をしているとその切り替えに戸惑うことがある。

都会から泊まりこみで、ある合宿に参加していた大学生が、数日後に体調を崩し病院で診断を受けたら「ハウスダストによる症状」と診断され帰京するはめに。状況が直ぐに理解できた。
ほこりっぽい宿が原因か?ほこりに弱い人の問題か?
今の家はクリーンな生活環境になっている。昔の家は違った。
木と、土、藁、カヤで作った家は常にホコリが降ってくる。しばらくすれば障子の桟や床にホコリがたまり、竹の柄の先に割いた布をくくりつけたハタキで”パタパタ”と掃除する姿を見る機会など殆ど無い。クモや蛙、ねずみ、コウモリ、ヘビと同居?していた。飼っていたのではない。
家の中で裸火を燃やして煙やススが部屋に漂うなんて話をしたら、冗談じゃない!と言われるのが関の山。それは普通の事だったのに。12の木で実感した。
ひょっとして囲炉裏の灰の中で米の団子を焼いて、灰をはらってそのまま食べた。っていう話ももう通用しないのだろうか?
おかしいと思わないか?木、土、藁、カヤ、灰・・どれも人間が誕生した自然界の最も自然なものなのに。

今年の夏は暑い。クーラーが無かった時代は団扇に扇風機、浴衣姿に風鈴に朝顔、打ち水、涼をとるための工夫に風情があってよかった。しかし、それも温度変化に耐えられなくなってきたヒトの体には、限界がある。月間電力消費量過去最大の記録が物語っている。

さて食べ物の事だが、学校給食の知人はこうも言っていた。「揚げ物、焼き物なんでも直ぐに温度計。料理じゃないみたい」。これには少し侘しい思いをした。
確かに、今の社会通念上の常識では、そろそろ「愛情」「職人のカン」「経験」は、卒業させないといけないのかもしれない。
ささいなことでお腹を壊す子ども。アレルギー体質。情報化で直ぐに広まる噂。それに加えて料理を作る時間の無い社会環境料理を教わることの無い家庭環境

私は30年、食を販売し、食を研究し、調理を指導してきた。いったい何ができたろう。
料理は素材と対話して感じて作るもので、愛情をもって、経験を積んで表現していきたいと考えているのに。

 

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2010年08月20日 09:55に投稿されたエントリーのページです。

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