「プロ」と今年の研修より

「プロフェッショナル」の意味を、wikipedia.orgなどから抜粋

1.専門家。
2.趣味としている人であるアマチュアに対する語。プロとアマチュアの境界は、ジャンルによって異なる。
3.そのことに対して厳しい姿勢で臨み、かつ、第3者がそれを認める行為を実行している人。
4.ギャンブルなどで生計を立てられるほどの収益を上げている人。

プロ(プロフェッショナル)というのは、いろんな場面やそれぞれの考えが含まれた言葉だと思うので一概には言えないし、時代の流れによって変化していくものだと思います。
ならば、持論もあっていいだろうし、”プロ考”を展開してもおしかりを受ける事もないでしょう。

アマチュア、プロフェッショナル、言葉のニュアンス

この10年くらい?、プロという言葉が以前より意味深く使われ出してきたような気がします。(↑上の3.)
それまでは、アマチュアミュージシャン、アマチュア作家のように、あくまでお金を貰わず、趣味のカンバンを掲げてその事に従事していた”素人”と対比して使っていたプロという言葉。
趣味なのにちょっとお小遣いが稼げるようになると、セミプロとか呼んだものでした。
しかし、セミプロはセミプロ。プロ(プロフェッショナル)ではなかった。
そこでセミプロもアマチュアの領域とすれば、プロの垣根は非常に高いもののように思え、アマにとっての憧れの存在であったように思います。

プロという立場を確立し、取り上げだしたマスコミの影響もあるのかもしれません。
それまでは、名工、熟練者的な、高度な技巧技術(テクニック)を持ち得る人や伝統工芸や伝承芸能の名人、達人が世間一般に注目されて来たように思いますが、今ではそれらに当てはまりにくい、接客やサービス〜経営、マネージメントにいたるまでプロフェッショナルというものが認められています。
より資本主義的になったと言えるのかもしれませんが、世間の価値観も変わってきているのだと思います。このような現象から考えてみても、「専門家」と「プロフェッショナル」、細かくは「プロ」という言葉のニュアンスもそれぞれが違う意味を持って使われはじめているような気がします。


プロの自覚

アマチュアという言葉を素人という言葉で言い換えると、素人漫才、素人料理人のように、単に「ヘタクソ」「未熟者」を差していることもあります。これは、お金をもらっている専門家に対して言う悪口であったりします。(中には自分で言う人もいますが)
とするとプロというのは、ヘタクソではいけなそうです。
しかしながら思い出すのは、私が30年前、高卒で入社した職場で「あなたがたは今日からプロとしてやっていきます」などと言われ、内心”いきなりプロかよぉ・・”と思ったかどうかは忘れてしまいましたが、衝撃的だったのに加え、初めてそのことを意識した瞬間でした。ただし、その訓辞は非常に解りやすく、的確だったと感じています。

私は人の言うことを真に受けいれてしまう所があって、特に先生や先輩が”こうだ!”ということは、まさにそれに従うように生きて来たように思います。
「芸術家は食っていけないぞ」「精錬潔癖であれ」「料理人はなんでも出来ないとだめなんだぞ」。もちろんそこには沢山の失敗も伴っての事でした。
それはさておき、「今日からプロだ」と言われた私はものすごい焦りを感じ、線を引いたように(全てをなげうって?)料理の勉強に取り組んだのを忘れられません。

2007.04「プロを自覚できるか」


研修にて

いきなり”プロ話”をしたのは理由があります。毎年恒例の研修について少しご報告します。

私は毎年、年度の終了時に次年度のスタンバイのために、テーマを決めて研修旅行をします。旅行でなくても。と思うのですが、やはり地元を離れないとダメなところがあって、そうしています。
今回のテーマの一つに「雑貨屋めぐり」というのがありました。
大昔の雑貨屋は、洗剤やほうき、饅頭やはながみまで売っている、いわばコンビニのようなものでしたよね(余談)。

雑貨屋というのは、ちょっと都会の裏通りや若い人が沢山集まるような所で、細々といろんなものが置いてあって、それぞれの店がカラーを持っていたりしますが、最近頓に都会化?した我が町周辺都市にも出現の兆しを感じているものです。私はこの雑貨屋が大嫌い(この話をし出すと長くなるので打ち切り)。

話がさらにそれますが、私が小学生の頃していた遊びといったら、粘土遊びに木を削ったり、紙を切ったり、マンガを書いたり、押し花、刺繍に編み物・・一人遊び大好き。NHKの主婦の趣味番組と、のっぽさんの「できるかな」にかじりついて見ていた記憶があります。だいたい今と一緒です。
そんな私ですので、出来上がったものの執着よりも作る事が、こたえられなく好きなんですが、最近ちょっとした変化があって、何となく飾りたくなってきたんですね。きっと年をとったせいでみんなと共有したくなったのかなと漠然と結論づけていますが。

折しも、カルチャーブーム、おうち○○ブームで、そんな関係の人達が元気なのにつられて、なんとは無しに居心地のよさなど感じながら”なんちゃって系”を楽しんでいた私でありました。
そうこうしているうち、ふと気づいてみると、私のプロ魂の有り場所というか立脚点までもふわふわとして居ることに気づいたんです。
ただそれは凄くラッキーな事で、大抵人間は凝りをほぐすのに苦労するのに、その逆になっていたのはまさにここ、ねおかんのおかげと、感謝。

いわゆる雑貨屋。この手のお店を私が勝手に二つに分けます。
「A.大型展開していて全国に何店舗もあるような、物販業の店」
「B.20〜30代のオーナーが自分のセンスで開業している、フリマの延長のような店」
A.タイプ予備軍というB.タイプもあります。純粋B.タイプもあります。

やはりお店というからには、人が集まるところから広がっていく習性もあるし、インターネットを業にしている私としても、バーチャルで無い体験は日ごと価値が高まっていますので、これは今回のテーマとしてまさにふさわしい。
実際の店名は出すつもりはありません。規模の大小、名前やキャリアの有る無し、取り扱い品や形態にこだわらず時間と軟弱な足の許す限り見て回りました。やきものの店も含まれています。ネットや雑誌で調べた情報と都内在住の恩人の情報を頼りに。

でここより、「雑貨屋めぐり」とプロの話になります。

プロは○○して初めてプロと言える

人には、やりたいこととやれないこと、出来ることと出来ないことがあります。それは、身体的科学的理由以外は、お金(時間)と想いによって決まってくるような気がします。
私はお金は自由にならない変わりに、時間が自由になる生き方を選びました。やりたいと思ったことは自分に嘘をつかず、やれない理由を解決するように一生懸命考えるようにしました。そうしてみて解ったのは、こんな生き方をしているのは、自分ばかりでなく大勢の人がやっていたのだということです。知らなかっただけでした。

そうこうしているうちに決定的になったのは、やはりお金は大事だ。ということです。
私は「お金がないと生活できない」なんて言われることには素直になれなかったのですが、「お金がないとやりたいことができない」ということはものすごく時間がかかって解りました。
一生懸命人生をおくるには、やりたいことに直面するし、それをやるにはお金を稼ぐための仕事があり、一人前に稼ぐには、人に認められた仕事が出来ないといけない。ということです。仕事をやっていたらお金が入ってくるのと、お金を稼ぐための仕事の違い。後者がプロの仕事と言えるのではないでしょうか。
結論を言うと、プロは稼いで初めてプロと言えるのです。言い方を変えれば稼げないプロはプロではない。

今回の研修の恩人Kさんから、メールを頂きました。

 「プロってなんでしょうね。
 趣味、道楽でお店をやっている人は、それはそれでいいと思ったりもしますが。
 自分のスタイルをつらぬいて、わかる人だけわかってくれればいい、とお客さんを選ぶ店も多いではないですか。
 もうそれは、商売とは違うのかもしれませんが。自分の世界を披露する場をもつことが目的ということで。
 自己満足との境目は、なんでしょう。
 ・・」

Kさんは、昔からの友達で生き方も人も素敵なかたです。こうも書いてありました。

 「・・少なくともお客さんとまともに話すというか、向き合う姿勢がなくなると、
 店主もその店も成長しないというか、代わり映えしないというか。・・」

気になった雑貨店でも、前触れもない閉店や、突然海外に旅に出て閉店してしまうところも少なくないとのこと。
お客の寂しい心情、オーナーと共に変化するお店の事にもふれ、何十年続く老舗がある意味すごいという内容でした。

さて、最近は簡単に起業して、やりたいがままにやって見事に消えてしまう店も少なくないと思います。個の想いを容易く発表できる世相であるとも言えるのかもしれません。
続けば人(や社会)から認められたという事とは違うと思いますが、一理あります。しかしそのために、血のにじむような努力を重ね、維持に務める人もいます。

私は、プロの仕事というのは、常に責任がつきまとうと思うんですね。
「プロは稼げないといけない。それには人に認められた仕事が出来ないといけない」と書きました。
人が認めるというのはなんでしょう。自分には決して出来ないと敬うことか、感動するほど素晴らしい仕事を讃えることなのか・・、それは惰性であったり、イメージで判断していることのほうが多いかもしれませんが。

そして、認めるということは心の中で「スゴイ」と言うのでも、口に出して「スゴイ」ということでも無いと私は思います。認める事の証はお金を払うか払わないかでしょう。一流であればあるほど沢山のお金が動くはずです。
さらに、一流であるということはどういう事かというと、それによって勇気が出たり、優しくなれたり、子孫の事を思う事ができたり、そんな影響力を持つ事だと思いますね。
世に一流と言われる企業の行いは、一瞬にして世の中を変える影響力を持っていると思います。怖い事ですが、その責任たるや私の想像に及びません。それだけでもプロフェッショナルたる所以だろうと思っています。

私自身の仕事の種類とすれば、製造も販売もする自営業。自分の能力を越える事はできませんが、スキルアップしながら進化していくしかありません。それは、どんな仕事であっても関係ありません。そして、感動を与えられるプロフェッショナルであれるなら。それが目標です。
冒頭でwikipediaの解説を引用しましたが、私がwikipediaに書き添えるとしたら、以下のような一文を加筆するでしょう。

『プロフェッショナルとは、業界や社会に対して自ら責任ある行動のとれる人。』

そんな、人に感動した今回の研修でした。

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2009年03月15日 13:02に投稿されたエントリーのページです。

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